昔からの疑問

昔、といっても幅は広いんですけど、日常生活でこれはどうなんだろうと気になっていること、それについての現時点での私の妥協点をいくつか。

 

まず、世の中の全てのものの元となる形は丸なのか四角なのか、すなわち丸みを帯びたものであるか角をもつものであるか、ということ。これは、結局丸なんじゃないか、いやいや四角なんじゃないかと考えがぐるぐるするところでした。たとえば、机の天板の部分は形として説明するときは四角形と説明することがあっても、実際その角は丸みを帯びていたりします。でも、その角をさらに拡大していって、粒子や電子にまで行き着いたとき、はたしてそれが丸いのか角があるのかはたぶん誰にもわかることではないですよね、だって粒子なんてほとんど概念であって誰も目で見たことないでしょ、じゃあどっちなんだ、丸か?!四角か?!みたいなことを延々と考えることがありました。今の私は、まあどっちもあるかもしれないかな、ぐらいです。全てのものの元が同じ形ではないと思うし、もうひとつの理由はあとで詳しく書こうと思いますが、そもそも丸と四角が何なのか突き詰めれば今の私にはわからないからです。わけわからん、後述します。

二つ目の疑問は、平面って面積を出せるじゃないですか、でもその面積を出すときに必要な区画のための線、あれってなんなのというものです。あの線は面積の内に入るのか、求めたい面積の外側なのか。私にとっては謎の線です。

三つ目の疑問は、先ほど後述すると言ってたことに近くて、完全な丸、完全な球、はたまた完全な四角(角のあるもの)とはなんなのかということです。コンパスで円を書けば、ぱっと見角のないきれいな丸が書かれたように見えます。でも、本当にそれは丸なのか。鉛筆の粉が飛び散っているし、実は線の集まりが重なりに重なって円に見えているだけかもしれない。逆に角のあるやつもそうで、三角形を書いたときに、角は尖っているけど、完全に尖っているかと言われたらもしかしたらそうじゃなくて、ちょっと丸いかもしれない。それはパソコンやスマホ、もっとすごい機械でやっても、結局どの結果になっているのか私にはわからない。完全な丸や完全な四角ってなんなんだろう。

他にも疑問はあるけど、今日はこのくらいで。で、こういうことをずっと不思議に考えていたわけないんですけど、高校生になってひとつ、こういうことかもしれないと思うことがありました。プラトンイデア論です。私はそれを授業で習ったときに、すげえ!こう考えればスッキリやん!と思いましたね。単純。めちゃくちゃおこがましいのですが、おそらく古代ギリシャの偉大な哲学者プラトンもおおよそこういう疑問を持っていて、イデア界の存在の提示をしたのではないだろうかと自分勝手に推測しています。イデア論とは、多分ざっくりいうと、イデア界という完全な世界にはイデアという概念が存在していて、円のイデア、三角形のイデア、なんかがあります。それを現象世界に表そうとしても、紙に鉛筆で書いた円や三角形は不完全であるというもの、みたいなことだと思います。つまり私たちが見ているこの世の全ては不完全で、完全なものは全てイデア界にあるというものです。これすごくないですか、イデアで物事考えたら私の疑問なんて吹っ飛ぶ……とすら考えました。そのくらい衝撃でした。プラトンは偉大。まあもちろんこのイデア論も別に完璧なわけではなくて、じゃあそのイデアを私たちはどこで獲得したんですか、生まれる前ですか、そんなわけない、だって犬を犬として認識するのはずいぶん成長してからでしょ、と思うし、イデア界に全ての概念が存在していたら古代からパソコンやらスマホやらの概念あったでしょ、という突っ込み方もできるわけですしね。完全な哲学こそ無いのかなとも思います。でもイデア論は私の人生において確実に大きな爪痕を残しました。大昔の人も現代の人も、疑問に思うことに大差は無いのかもなと思います。不思議ですね。

こんだけ書いといてあれですけど、もしこの疑問に対して合理的に回答できる方がいればご一報ください。ちょっと哲学で片付けてしまった感があれなので(いかんせんセンター試験以来数学にさえ手をつけていないド文系です)、理系的に説明できる方、また文系の方も別な視点から説明できる方がいたら聞いてみたいです。実はとっくに解決していた疑問だったら面白いですね。わはは。

あと根本的なことですけど、理系と文系にわけることはどないなんということも書いてみたいし討論してみたいですね。

終わります!

運転免許を取得した話

8/6から8/23にかけて、近所の教習所に通い、この夏の、ひいてはこの1年の大きな目標であった普通自動車の免許を取得しました。もちろんAT車で。MT車の免許持ってるのもかっこいいなと漠然と思っていましたが、日本車の9割以上がAT車なので早く取得できるこちらにしました。

合宿ではないものの、短期で取れるコースを選びました。こういう短期のコース通った方や免許合宿に行かれた方はだいたいそうだと思うのですが、1日目から車の運転席に乗り、所内を運転しました。私の家では両親はともに免許を持っていて、車に乗せてもらう機会も多くて、どういう操作をすれば車が動くかは知識としても経験としてもわかっているつもりでした。でも、いざ自分で運転席に座っておそるおそるブレーキペダルを離すと(はじめからアクセルを踏むなんて無理でした)、いわゆるクリープ現象で車が前進しはじめてめちゃくちゃ動揺しました。自分の右足一本の操作で巨大な鉄の塊が動いていると思うとすごく怖かったし不思議な気持ちになりました。そして何故かハンドル操作がめちゃめちゃに難しい。まっすぐ走れているのかわからず、ハンドルを思いっきり握りしめ、小刻みに動かしていました。こんなものを乗り回しているそのへんの人々のことを急に信じられなくなったし、運転なんか本当にできるようになるのか、かなり不安でした。アクセルなんか踏めるかバーカ、とも思いました。

でもまあ当然のことながら日数を減るにつれ運転には慣れていきました。それでも、車に乗る前はいつも恐怖に苛まれて、またあれに乗らなくちゃいけないのか(シンジみたい)、怖い、行きたくないと朝は結構ごねました。行くんですけど。行って車に乗ってしまえば、不思議と乗りたくない、無理、という気持ちは消えて、いつのまにかアクセルを踏めるようになって、右左折もできる、クランクもS字もいける、坂道発進も大丈夫だ、となって時間が来ればインストラクターの人におつかれさまと言われ、ありがとうございましたと返し、家に帰れるようになりました(学科がある日は学科も受けて帰りました)。でも家に着くとまたあの恐怖が襲ってきて、どうして私はあれに乗って上機嫌で運転していたのだろう、恐ろしいと思う日が続きました。特に仮免を取って路上教習になった時は酷かったです。国道26号線を走っていた自分を信じられない。高速教習だって本当にやったのか?と思うほどでした。

そういう恐怖と闘いつつも運良く(?)検定にも一発で合格して、免許証をいただいたわけなんですけれども、ここからが本番かなと思っています。当たり前ですけど、もう助手席に教官は乗っていないし、助手席にフットブレーキがあるわけではありません。教習車とはメーカーの違う家の車に乗ることには、なんだか教習の時よりもとてつもなく重い責任を感じてしまいます。先日一度助手席に母親を乗せて(余談ですが、母親は30年間無事故無違反のゴールド免許保持者です、ペーパーじゃなくてほぼ毎日車を運転していて、ですよ。すごい)運転する機会があったのですが、教習車と全然違うやんけ!怖!と思いました。検定の時の教官に、この中で1番くらいに上手いと褒められたのに、褒めるところのない運転をしてしまった、恥ずかしい。まだまだこれからだし、そのこれからが大変なんだろうなと身にしみました。

でもその、ことあるごとに感じた恐怖は、運転するにあたってかなり重要だとも思います。運転することに恐怖を覚えなくなったら、自分勝手な運転になったり、場合によっては事故を起こしたりしてしまうかもしれません。百歩譲って自分の車だけが傷つく事故ならまだしも、物損事故や人身事故なんて、たとえ自車が悪くないとしても取り返しのつかないことになってしまいます。だから、恐怖を乗り越えて運転するというより、恐怖を常に片手に携えて運転しよう、と思いました。決意ブログ。怖いと思う気持ちが薄れてしまわないようにブログにしました。啓発ではないです、笑

 

書きたいことが少し溜まってきている!怠けずに更新していきたいと思います。まとまりが全然よくないけど、終わります!以上!

自己嫌悪のやつ

自己嫌悪のやつに陥ってます。波風です。この記事ひたすらうだうだしてます。

自己嫌悪のやつとは、要するに自分大嫌い嫌い嫌い期みたいなやつですね。私にとってはなんら珍しいやつではないし、もしかしたら皆さんの中にもそういう期間がくる人がいるかもしれないのですが、今、なう、それ、というかんじです。19歳の誕生日を迎えた頃に、ツイッターで高らかに19歳の目標は自分を好きになることですと宣言してしまったのですが、まったく達成されていない。つらい。まあその目標には続きがあって、そのための努力を惜しまないということだったのですが、惜しんでいる部分もあるのではないでしょうか、そりゃ嫌いなままになりますよね、という話なんですけれども。でも、自分のことを好きになるための努力とはなんなのか。私の場合は多分、何事にも手を抜かないで最後まできっちりやる、ということです。手を抜かないで、ときっちり、の基準はまあまあ厳しめなので、だからまったく達成されないんですかね。でもまだまだだめです。じゃあやれよ、と言われれば本当にその通りです。やれよ私。

で、どうして今自己嫌悪のやつになってるかというのは自分の中ではある程度はっきりしてて、でも結構というか全然どうしようもないことなので時が過ぎるのを待つばかりです。端的にいうと何をやっても1番になれない自分のことがむちゃくちゃ嫌いなんですよね。そりゃだいたいの人間そうかとは思うんですけど、どこの界隈でも1番になれないのは私にとって結構苦痛で、だからどうってわけではないけど、そういうことをまざまざと見せつけられるとウジウジしてこの魔の期間に突入してしまうのです。この場合の1番、というのは相対的に周りより秀でる、という意味もあるけど、他人とは違う良いところを持つという意味でもあります。(周りより秀でて1番ということはほとんど経験したことがありません。そこまで傲慢ではありません。)他人の良いところは見つけられるのに、自分の良いところはわからないし、悪いところばかり見てしまう。てなことをぽろっと人に話すと、「波風さんはこういうところがいいよ」とか励ましてもらったりするんですけど、そういうことではないと思ってしまうし、また人に気を使わせた弱い人間…ゴミ…と思ってしまうので、その励ましは嬉しいしありがたいけど、結構双方に微妙な感情を抱かせてしまうと思うんですね。なんか、他人との距離の取り方が下手というか、どこまで頼っていいのかあんまりわかってないんですよね。迷惑かけてるんじゃないか、嫌われるんじゃないかと思って、頼るタイミングを見失ってしまうし、頼り方の加減がわからない。

 でも、私の性質でちょっと救われることもあって、まあその性質というのが、だいたいのことは時間が解決してくれると考えてる部分があるということです。この考え方って場合によっては最低なんですけど、嫌なことも時間が薄めてくれるので、根に持つことがないんですよ。だから今しんどくても、時間がたったら今のことは忘れてる。多分根に持つタイプだったらもっとヤバかった。もう泣いてる、あの時もこの時も…と。でも嫌なことがフラッシュバックすることがないからちょっとは楽ですね。ベースはネガティヴ思考にしても、過ぎれば忘れてるし。まあこういうこと書くとまた考え方が変わりそうで怖いけど(笑)

ネガティヴでいいことはあんまりない。基本的にしんどい。しんどいアピールをすることは好きじゃないけど、今みたいに落ち込む期間になるとうわーつらいーとなる。誰にもどうしようもないんですけど。できることが少ないと悲しいことばかりですね。他人の良いところばっかりに目がいって、私なんか、私なんか…ってなる癖が直らない。過剰な比較意識がいけないとわかってるけど、なにぶん未熟な人間なので、ほとんどの場合、いまだに他人と比べることでしか自分を評価することができません。大学生にもなって。心の貧しい人間……。

早く精神的に大人になりたいですね。思ってるだけじゃ無理だとは思うけど、実年齢相応の精神年齢になりたい。まあ、とりあえずやることきっちり納得するまでやる、ですね。ちょっと今しか書けないなと思ったので勢いでだらだら書きました。ごめんなさい。おわり!

恥を知れ!しかるのち死ね!

夜は短し歩けよ乙女を読みました。ちょっと、タイトルとリンクしてる部分が少ないようにも思えましたが、なんというかバズってた割に可もなく不可もない本だと感じました。結構、いつ面白くなるのかな、いつ面白くなるのかな、がずっと続いて、私は最後の数ページは好きだったんですけど、それにしたってちょっとパンチが足りないかな〜みたいな。多分、私が京都の大学に通っていたならもうちょっと面白かったのではなかろうかと思っています。バズってたのは京都の若者の影響なのではないかとすら思っています。あと、思ってたよりファンタジー要素があってびっくりしました。フィクションではあるけど現実でありえないようなことは起きない感じで進んでいくと思ってたので心底驚きました。鯉が空飛んだり、人間が宙に浮いたり。不可思議。うーん、やっぱり自分の目で確かめないとわからないことって多いですね。ここのところ買った小説2連続で当たりが出なかったのはちょっと残念ですな。。

あ、夜つながりでいえば、夜のピクニックはすごく好きでした。こちらの方が夜に歩いてました。いや別に夜に歩く本が好きなわけではないですけど。なんか、すごく大きな事件があるとかそういう感じではないけれど、高校生の微妙な感情というか、そういうのが嫌味なく表現されていて、どんどん読みたくなる本でした。あと個人的には、主人公たちが通っている高校が自分の通っている高校に似ているから話に入っていきやすかったです。これは今後も何回も読みたいなと思わされました。私は好き。

みなさんのおすすめの小説も聞いてみたいです。近代文学も好きです。

一人称について

皆さまそれぞれ自分を呼称する時の一人称をお持ちだろう。「私」「僕」「俺」などが代表的な一人称だと思う。自らのファーストネームを一人称にする人もいるだろうし、SNSなんかで、「ワイ」「ワシ」と言う人もいる。

ちなみに私はほとんどの場合「私」であり、両親と祖父母に対しては恥ずかしながらファーストネームである。弟に対しては「お姉ちゃん」と言う。他人に聞かれるとちょっと恥ずかしい感じだ。小学校ぐらいから中学2年生まではもっとバリエーションがあって、両親と祖父母、弟に対しては同じなのだが、先生や目上の人には「私」、同級生には「ウチ」、心の中で話すときは「あたし」といった感じだった。今となっては結構鳥肌が立つような一人称で、小学生の時に書いていた私以外に死ぬまで絶対公開しないと決めたクソDQNメンヘラ痛い系日記なんか、見返すとこれは本当に私なのか?となることもある。内容もさることながら、昔の一人称がそう感じさせる原因になっているとさえ言える。一人称で自分のことを自分でカテゴライズしている感じ。それは一人称の使い分けが減った今でもそうで、無意識下で、「この人にはこの一人称でいこう」と決めている気がする。だいたいは「私」なのだけれど。そういうことができるようになったのはいつ頃からなんだろう。自分と他者をはっきりと区別していないと一人称を自称することは無理なはずで。しかも無意識下であれ、使い分けるとなると、その対象者との関係も自分の中ではっきりわかっているはずで、だから一人称を変えるのであって。そしてもし、カテゴリーで使い分けているのなら、今後も変わっていくのかもしれない。子供ができたら自分のことは子供に向かって「お母さん」と言うかもしれないし、近所の子供達には「おばちゃん」と言うかもしれない。孫ができたら「おばあちゃん」になるのかも。それって自然にできることなのかな。今となってはわからないですね。

ちなみに私が同級生に対しても「ウチ」と言わなくなったのは、この歳にしてギャルみたいな一人称は恥ずかしいと思ったのと、心の中で(頭の中で?)話す(考える?)時にはずっと「私」であったこととのギャップがあったからかな。これは意識的に変えました。切り替え期間には自分にも他人にも結構違和感があった記憶があるなあ。

家族ぐるみでお付き合いするような友達がいて、家に招いたり、みんなでご飯に行こうとかなったときは、無意識で話す人によって一人称を変えてしまう。これは多分聞いてる人にとってすごい違和感があるだろうし、統一した方がいいのかなとも思う、けどなかなか難しいものがある。その会が終わるとちょっと反省してしまう。使い分けパターンの皆さんはいったいどうして乗り切っているのだろう。結構な疑問である。

また疑問だけつらつら書くやつになってしまった。反省。

 

そういえば前の記事、下書きを修正して公開したはずだったのに、反映されてなくて悲しかった。今はマイナーチェンジしています。どうでもいいかもやけど。

あと、二つ前の記事で母親への誕生日プレゼントをどうしようといっていたのですが、先日2人で買い物に行った時に、スヌーピーのイニシャルマグ(母親は大のスヌーピー好きである)を買うことでことなきを得ました。来年はもうちょっと値の張るものをあげたいなあ。

 

以上です!

 

君の膵臓を別に食べなくてよかった話

 

読書をたくさんしようと決めたときに、まずはやっぱり流行ってる作品から読もうと思ったので、当面の目標として先日映画も公開された「君の膵臓を食べたい」を読むぞ!という気になってて、おととい読了致しました。ツイッターのタイムラインなんかで、みんながこぞって泣いた泣いたというので、私も清らかな気持ちで泣いちゃおうと思って、わざわざ本作を読む前に、ちょっともやもやした気分になろうと湊かなえさんの「リバース」を読んで、感動に備えていました(面白かったです)。言い方はあれですけど、なんと贅沢にもミステリーを踏み台にしていたのですね。

それでまあ例に漏れず前置きが長いんですけど、「君の膵臓を食べたい」について僭越ながら述べていきたいと思います。もしかするとネタバレになってしまうので、万が一読もうと思ってる方がいましたらご退室ください。

 

 

率直に言って私はこの作品を好きにはなれませんでした。別に泣かなかったし。最初の方で一気に冷めちゃって冷ややかな目で読んでしまいました。まず、なんていうか文調がキツイ。一人称視点で書かれてるんですけど、まあキツイ。完全にライトノベル。言い回しがめっちゃまどろっこしい。ライトノベルライトノベルで好きだけど、この本って小説じゃなかったの?あれ?みたいな気持ちになって、思ってたんと違う…となりました。なんてこった。この作品のライトノベル感は文体だけではなくて、主人公が大の小説好きなのに、人からの好意的な感情についてはめちゃくちゃ鈍感。もう面白くないを通り越して、イライラしました。あと登場人物が主人公のことを【地味なクラスメイト】とか【仲良し】というふうに名前を明らかにせず呼んでいるのですけど、これも最初の方はしんどくて、名前だしてくれ…と思いました。作者の意図があるのはわかるけど、慣れるまで時間がかかったし、巧く効果が出せているのかも私にはわかりませんでした…。なんでや…。

あとこれはかなり結末に影響のあるネタバレですけど、タイトルから察しがつくようにヒロインは膵臓の病気で余命いくばくもありません。そしてまあヒロインは最終的には死んでしまうんですけど、それは膵臓の病が原因ではなくて。衝撃的ではあったけど、いやここまでやってきて病の悪化じゃないんかよ、みたいな。そこはありきたりでよかった気が…。読了後、リバースよりもやもやしてしまった。

 

同世代の知り合いの子数人が感動したツイートをしてたけど、私は感動することができませんでした。だから私がおかしいのか?と思ってしまったけど、思想メモにもあったように、別に感じ方なんて人それぞれだし、流行っているからってそれが私にとって面白いとは限らない、と感じることができました。そういう意味では勉強になったし、本を買うときはちゃんと冒頭を読んでからにしようと思いました。

あとこういうふうにしてブログに感想を残すことをこれからも少しずつしようかなと思っています。書いてみて思ったけど、気に入らなかった作品は嫌なところが目につくからいっぱい書いてしまいそう。よかったと思う作品は「よかった」しか感想が残せないかもしれない。良い作品を褒める語彙を増やしたいと思いました。あくまで私の感じ方ですので、そのへんはご容赦ください。

 

それでは。

癖と疑問

入学して初めてのテストも残すところあと2日となりました。7月にひとつも記事を書いていないのはやばいと思い、書いている次第であります。バカ暑いですね夏。

さて、まあこの1ヶ月何を考えていたかというと、自分の癖のことですかね。私は喋る時の癖として、逆接をやたらに使うというのがあることに気づきました。皆さんもたくさん使うとは思うんですけど(←逆接)、なんだか自分は異様に使っているような気がして怖くなってきたんですね。逆接の女。あと譲歩もすごくする。〇〇は△△としても、やっぱり〜〜みたいなこと言いがち。多分これは自己の保身に関して過敏になってるからではないかと思い始めました。できるだけ傷つきたくないしできるだけ傷つけたくない。あまりにも保守的。思えば私は自分で言うのもなんですけど、石橋を叩いて叩いて叩いて渡る(場合によっては渡らない)タイプなので、性格が言動に現れていると思えば、ああそうかとなりますね。

あともうひとつ、これは癖ではないけど、私は述語のボキャブラリーが貧弱すぎることにも気づきました。今更って感じなんですけど、文をたくさん書いていると、途中はいい感じなのに最後の締めの述語でいつも困ってしまう。一文を長く書く癖があるからそれが祟っているという説もあるんですけど、なんせ締めで詰まる。詰まるし、結局ものすごくあほみたいな締めくくりになる。こういう言葉は本当にたくさんの文章から学ぶべきなんだろうなと思う。日本語は美しいけどやっぱり難しい。

 

そして疑問の方なんですけど、あの、はてなスターってどういう時に押せばいいんですかね。既読みたいな意味なのか、ツイッターでいういいねみたいな意味なのか、数はどういう気持ちで何個押せばいいのか、わからない……というのがブログ開設以来の疑問。でもなんかなんとなく押してもらえると嬉しいから、いいねみたいなものなんでしょうか。うーむ

あとこれはさっき思いついた疑問ですが、明日は母親の誕生日であります。記憶を遡ってみても、大したプレゼントをしたことがなくて、皆さんどうしているのだろうという疑問です。親や兄弟にプレゼントする人って素敵じゃないですか。大学生になったことだし、何かあげるのもいいなと思ったけど、アイデアのストックがてんでない。これもうーむと思ってることのひとつです。うーむ

 

以上!です。閲覧ありがとうございました。夏休みはもっと高頻度で更新できるようにしようと思います💪

それでは。